クラシック音楽を吹奏楽で演奏すること -番外編
吹奏楽のレパートリーは実に幅広い。源流ともいうべきマーチはもちろんのこと、野外演奏をも想定したオリジナル曲、そして前衛音楽を含む現代楽曲としてのオリジナル曲、「ニューサウンズ・イン・ブラス」の登場により特に本邦で本格化したポップス、そしてクラシック音楽のトランスクリプション(或いは、アレンジ)と多岐なジャンルに亘る。
吹奏楽にとって、この多様性こそが「演奏参加型」の音楽ジャンルとしての特質でもあり、また強みでもある。反面、芸術性の乏しさや、音楽としてのアイデンティティの弱さが指摘される原因の一つであることもまた事実である。
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吹奏楽がクラシック音楽のトランスクリプションを演奏することの意味は、古くから議論されてきた問題であった。
管弦楽曲を吹奏楽に移して演奏することに何の意味があるのか?所詮、弦5部を擁するオーケストラのために書かれた音楽を吹奏楽で演奏するには無理があるし、出来上がったものは「デキソコナイ」でしかない。管弦楽曲が演奏したいのなら、最初からオーケストラで演ればいいではないか!
そしてそこには、オーケストラに参画する夢に敗れた奏者・指揮者の鬱勃たるコンプレックスが見え隠れする。(あぁぁ、暗い!)
-こんな主張があり、そこには真実を内包していることも否定できまい。
例えば、ベートーヴェンの交響曲全楽章を吹奏楽で演奏することなど、意味がないとほとんどの方が思うだろう。しかしドヴォルザークの「新世界」やベルリオーズの「幻想交響曲」あたりだと、実際に吹奏楽団の選曲会議で「全楽章演りたい!」なんて意見が出ることがあるのだ。
そんなもの、誰も聴きたくない!
どんなにいい演奏をしても(いや、却っていい演奏であればあるほど)「やっぱり、オケで聴きたいよね。」の一言で、真っ当な聴衆からは”バッサリ”だろう。
※イーストマン・ウインド・アンサンブルの3代目常任指揮者を務めたドナルド・ハンスバーガーも、1976年6月の来日時に以下のようなコメントを残している。
(出典:バンドジャーナル 1976年8月号/
「interview_1976_june.jpg」をダウンロード )
実はこの当時から、こうした見識は既に確立されていたのである。
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私自身、吹奏楽はオリジナル曲の充実が最重要と考えているのだが、それでも吹奏楽がクラシック音楽のトランスクリプション(アレンジ)を演奏することには肯定的である。なぜなら、
1.吹奏楽にとって、「多様性」は武器である。これほどお客さんの多様な音楽ニーズに応えることができるのは、吹奏楽だけ。
2.管弦楽団で実際に演奏される曲目は偏っている。正統クラシック界での評価が「超一級の名曲」でなくとも、良い音楽はたくさんある。それを掘り起こして提示するのは極めて意義のあること。
3.演奏者にとって、力のある作曲家の音楽を演奏することはそれ自体が大変にプラス。「演奏する」ことでその音楽はその人にとって”特別なもの”になる。
4.良い楽曲を演奏することによって齎される音楽的喜びはやはり大きく、その喜びを求めることは当然のこと。
5.「音楽への入口」である吹奏楽の役割からしても、幅広いジャンル、幅広い作曲家の作品に取り組むことは意味がある。吹奏楽で音楽を識った人が、プロであれアマであれ吹奏楽を続けたり、管弦楽やジャズの世界に進むことは全く以って望ましい。”卒業”後、「聴く」の世界だけに止まる人たちにとっても、より幅広い音楽(特に”敷居の高い”クラシック分野)を楽しめるきっかけとなるはずでもある。
といった理由からである。
要は”演奏する意味があるか”よく考えて演目を選び、良い編曲を選べば良いのである。
(もちろん、編曲の出来を問う前に、演奏者が作・編曲者の意図を謙虚かつ確実に理解し、その再現に全力を尽くすことは当然である、為念。)
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近時、素晴らしいクラシック音楽の吹奏楽編曲作品が生み出され、新たな、そして有意義なレパートリーの拡充が図られていることは大変喜ばしく、その意味でも「選択」こそが重要となってきていると言えよう。
中でも、森田 一浩先生のアプローチは実に凄い!クラシック音楽を吹奏楽で演奏するにあたり、原曲の良さを発揮させながらも、一から再構成しようとするのである。そしてその成果は、「”くじゃく”による変奏曲」「スペイン狂詩曲」「アパラチアの春」をはじめとする優れた作品に結実している。
さらにこのアプローチを発展させ、森田先生は「ピアノ協奏曲」さえ題材になり得ることも証明したのだ!
(2005年:パガニーニの主題による狂詩曲(S.ラフマニノフ)
/音源は左画像)
このほか、真島 俊夫氏による「喜びの島」 、天野 正道氏による「夜のガスパール」のようにピアノ曲からの優れたアレンジも登場しているし、鈴木 英史氏の一連のオペラ・セレクションはその着想が素晴らしく、音楽の根源的な喜びに溢れ、またオペラに接するきっかけの創出といった多面的な魅力を備えた、極めて有意義なものだと思う。
かつての「クラシック・アレンジ」も、現在では実に高次元に変容しているのだ。
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「編曲」は難しい作業である。原曲の良さは当然生かしつつ、吹奏楽での実演に耐えるものでなければならない。
(どうもうまく行かない場合、問題が演奏者にあるか、編曲にあるかの見極めが難しい。「斬新な」「より優れた」編曲を目指せば、際どいところを狙うことになり、この見極めはますます難しくなる。)
そして、「敢えて吹奏楽で演奏する価値がある」ことも求められる。と、なるとオーケストレーションの問題以前に、編曲者にとって「どんな楽曲に着眼するか」が重要だということも、判っていただけるだろう。
-いずれの問題に対しても、良解を求めるにはひとえに”センス”が必要となるから、難しいのである。
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コメント
こんにちは。編曲物の吹奏楽による演奏の意義、
非常に共感を持ちました。
数項目、すべておっしゃるとおりだと思います。
これぞ大人の識見、とうれしくなりました。
結局は、演奏者、聴衆双方にとってハッピーなものは何か
に尽きるわけで、その際、やれ管を弦に似せて吹いて、弦の音を出すのだとか、無理をしても仕方が無いと思いました。
吹奏楽の外にいる人たちはその辺自然体でわかっていますね。
うちのかみさんや子供達は、オリジナルの秀作や、アレンジでもローマの祭のように、それ自体聞き応えがあって、観客も全員よく知っている曲で、名演には全員でノって称える、というタイプの曲が自然に好きなようです。
投稿: きみ | 2007年3月12日 (月) 22時43分
きみさん、コメント有難うございます。
私が京都勤務時代に所属していた楽団でグラズノフの「秋」を演った時のことです。原曲ではバイオリンが弦を弓で弾くように演奏する部分、指揮者のクラリネットに対する指示は何と「かすれた音で」でした。
そんなワケあるかい!
心の中でツッコミました。楽音である以上「かすれた音」などあり得ないから。(JAZZサックスの特殊奏法を除く)そこまでして弦の真似っこしてどうするというのか・・・。
-きみさんのコメントを拝読して、そんな昔のことを思い出してしまいました。
投稿: 音源堂 | 2007年3月12日 (月) 23時36分
自分の中での、「吹奏楽で演奏すること」の意味や目的が、ハッキリしました。
ありがとうございます!今後の選曲などに役立てたいです!
投稿: つに | 2013年7月27日 (土) 19時26分
つにさん、コメントを有難うございます。
私の申し上げたかったことにご理解と共感をいただけたようで、とても嬉しく存じます。今後とも「橋本音源堂」をよろしくご贔屓のほどお願い致します。
投稿: 音源堂 | 2013年7月27日 (土) 23時32分