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2006年10月15日 (日)

プラハのための音楽1968

PhotoMusic for Prague 1968
カレル・フサ (Karel Husa 1921-2016)
I.   Introduction and Fanfare
II.  Aria
III. Interlude
IV. Toccata and Chorale

※ミシガン大学を指揮するカレル・フサ

「・・・なんじゃこりゃぁ!」
松田優作の有名な科白みたいだが、まさにこの言葉しかない。1978年度全日本吹奏楽コンクール実況録音、総社東中の自由曲。プロでも破綻する可能性のある難曲に挑んだものとして評判になっていたが、まさかこんな曲とは・・・。全くワケが判らないのに、判る。同校の鬼気迫る演奏には充分に伝わるものがあった。聴いたことのない音色・奏法・楽句が次々と現れ、まさにぶん殴られたようなショック。これ以降かなりの期間、私は音楽に関し、現代音楽(の手法による楽曲)に最大のプライオリティを置くこととなるほどだった。
同時に自分と同じ中学生が、これほど凄い音楽に取り組んで感動的な演奏をしている -そのことに驚き、そして自らを振り返れば嫌になり、何よりそんな演奏をやってのける彼らに嫉妬した。

♪♪♪

プラハで生まれたチェコ人のカレル・フサは既にアメリカに活躍の場を移し、市民権も取得(1959年)していた。そのフサがイサカ音楽大学の委嘱により1968年に作曲し、翌1969年に初演。同1969年には弦楽四重奏曲第3番がピューリッツァー賞を受賞するなど、当時充実を極めていたフサがもたらした、吹奏楽界屈指の名作である。

その内容は濃密にして、深い。吹奏楽のオリジナル曲にこれほどシリアスな作品は他にない。
「プラハの春」とよばれる自由化に踏み出した祖国チェコ(当時はチェコスロバキア)が、ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍に軍事介入され、制圧されたことに対し、烈しく抗議したものなのだ。
この曲に感動したジョージ・セルが改編を依頼し、管弦楽版が作られて演奏されたという有名なエピソードからも、この曲に対する高い評価のほどが窺えよう。

♪♪♪

1968年1月、チェコ共産党第一書記に選出されたドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を掲げ、言論や集会の自由、市場経済の導入などの改革に着手した。しかし、この「プラハの春」は長くは続かなかった。ソ連・東欧諸国の警告にも怯まず、改革路線を維持するチェコに対し、遂に同年8月20日、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が軍事介入に踏み切ったのだ!
侵攻してきたワルシャワ条約機構軍に抵抗する市民の中には射殺された者もおり、また軍事介入に抗議する学生2名が焼身自殺を遂げるなどの悲劇を生んだ。
ドプチェク第一書記はモスクワに連行され、チェコにおける改革の中止を求める書類に署名を強制され、「プラハの春」は終わった。翌1969年4月には保守派の第一書記が選出され、自由化の動きは息の根を止められてしまう。
真の自由化は、後の1989年/ベルリンの壁の崩壊の時まで待つことになるのだ。

「プラハのための音楽1968」はこの一連の事件に対する、カレル・フサの火の玉のような怒りが込められた作品である。既にアメリカで市民権を得て活躍していた彼にとって、祖国の自由を軍事力で奪ったこの事件は到底許し難い、激しい憎悪の対象であったのだろう。

♪♪♪

この曲に関しては「第4楽章で民衆の勝利が高らかに歌われる。」と解する向きもあるが、私には全くそう思えない。全曲を通じて感じるのは、烈しい怒りと深い悲しみ、そして絶望的な現実!
それでも屈しない強い意思、願いが示されていることも確かだが、何よりも全身がうち震えるほどの「怒り」の凄まじさを感じてしまうのは、私だけだろうか。

斬新なサウンド、不協和音・変拍子の駆使、サウンドクラスター、フラッタータンギングによる表現など、現代音楽の手法を散りばめながらも、この曲は非常に描写的な音楽である。

最も大切な主題は、フス信奉者の戦いの歌=
”汝ら、神とその法の勇士たち”
(Ye Warriors of God and His Low)

これは永くチェコで歌われたレジスタンスの歌であり、この曲でも民衆の抵抗を表す。
これに対峙するのが激烈なファンファーレ=軍隊による制圧を表す”蹂躙のファンファーレ”だ。
この”抵抗の歌”と”蹂躙のファンファーレ”を軸に、作曲者コメントにもあるように「開放と勝利のしるしの鐘の音」「自由のシンボルである鳥の声(=冒頭のピッコロ・ソロ)」などを描写していく。クライマックスでは、軍靴の響きを表すドラムの楽句も登場するのである。

♪♪♪

曲中のクライマックスは第IV楽章の「トッカータとコラール」。ここでの感情の爆発はすさまじく、第I-III楽章はあくまでその爆発の瞬間に向けてセットされている位置づけと言っていい。

I.序奏とファンファーレ
主要な動機が全て提示され、全曲のダイジェストとなっている序曲の役割を果たす。冒頭、微かに聴こえるTimp.は”抵抗の歌”で、第IV楽章終結部と完全に呼応するもの。これをバックにPicc.ソロが平和の象徴である「鳥の声」を奏でるが、ほどなく”蹂躙のファンファーレ”に覆されてしまう。
蹂躙のファンファーレ
1抵抗の歌
1_4





II.アリア

陰鬱な憂いの歌。終始不安げなサウンドと、息苦しい圧力。
2
III.間奏曲
アンティーク・シンバル、トライアングル、サスペンディッド・シンバル、ドラなど計12の金属打楽器+ヴァイブラフォーン+スネアドラムのみで構成される。
3悪夢のようにぼやけた風景が、悲劇の現実へ呼び返されていく。

IV.トッカータとコラール
冒頭から鋭利な音楽が始まる。
41拮抗したアンサンブルが極めて高い緊迫感を、絞り上げるように継続していく。やがて信じられない事が起こったのか、眼前の風景がぐにゃりと歪むが、それを振り払うかのように”抵抗の歌”が必死の咆哮を上げる。
しかし、である。強烈なファンファーレが、その必死の叫びを容赦なく蹂躙するのだ!その理不尽さの表現に、深い悲しみと激烈な怒りが込められる。

混乱を極めた末に一旦静まり、Timp.ソロに導かれ”抵抗の歌”が厳かに歌われる。しかしこれもまた、サウンドクラスターが表す混乱の中から近づいてくる無表情な兵士の足音(スネア・ソリ)に、一度は打ち消されてしまう。
しかし歌は途切れない。絶対に屈しないという強い意思を漲らせながら、エンディングまで歌いきる。
打楽器の残響が、切ない・・・。
42

♪♪♪

難曲かつ、表現に非常に高い積極性を要するこの曲に、納得のゆく名演は少ない。私の保有する音源は11あるが、細部のテクスチャーに至るまでは神経の行き届かない演奏もあり、この曲の難しさを物語る。また、中には小手先であざとく味付けされ、薄っぺらい印象を与える演奏もあり、残念でならない。
そんな中で、音源は以下をお薦めしたい。

Templeカレル・フサcond.
テンプル大学ウインドシンフォニー

作曲者フサの自作自演版として人気が高い。これを聴くと第I-III楽章は抑制気味に演奏されており、全曲の構成に関する作曲者の意図が判る気がする。
第III・IV楽章に登場するドラムは深胴でピッチは低い。
また、この演奏冒頭のPicc.ソロの積極的な表現は抜群、見事!

Photo_6カレル・フサcond.
ミシガン大学シンフォニックバンド

自作自演版の原典、かつこの曲の原典が、この演奏(LP)。当時の演奏としては限界ともいうべき好演である。



Etsuボビー・フランシスcond.
イーストテキサス州立大学
ウインドアンサンブル

瑕はあるが、ハートのある演奏を聴かせてくれる。



そして、私にとっての決定盤はこの演奏。

Eweドナルド・ハンスバーガーcond.
イーストマン・ウインドアンサンブル

何と言っても、アンサンブルのシビアさが他の演奏とは一線を画す。この拮抗した感じ、緊迫感こそが、この曲の表現にふさわしい。
第III・IV楽章に登場するドラムは高めのピッチ。このドラムが、第IV楽章では無表情で冷徹な兵士の姿を的確に表現しており、私はフサ自作自演盤よりもこちらの選択を評価したい。細部にまで神経の行き届いた、大変な名演である。

※ その他の所有音源
     ジェームズ・キーンcond. イリノイ大学シンフォニック・バンド
     ハリー・ベギアンcond. イリノイ大学シンフォニック・バンド
     秋山 和慶cond. 大阪市音楽団
     ユージン・コーポロンcond. ノーステキサス・ウインド・シンフォニー
  ウイリアム・バーツcond. ラトガース・ウインドアンサンブル
     リボル・クラマーシェクcond.
        プラハ・キャッスル・ガード・アント・ポリス・ウインド・オーケストラ(I・IV楽章のみ)
  ヴァーツラフ・ブラクネフcond. 東京佼成ウインドオーケストラ


(Revised on 2016.12.16.)

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コメント

 フサのプラハ、今回は何とも重たい選曲ですね。僕も中学生の頃、この曲を初めて聴いた時、機関銃の音とか、人のうめき苦しむ声とか、かなり明確な印象を持ちました。何かすごいことがあったらしい、と曲を聴いただけで分かっちゃう。その後で、プラハってどこだ?1968って何の意味があるんだ?と調べ始めて、プラハの春とかその弾圧に至る歴史とか、結果として知るようになる。そんな特異な音楽体験をもたらしてくれた異常な作品です。
 こうした強烈なメッセージを持った作品を何ゆえに書かなければならなかったのか。個人的に「こうかな~」と思うところを、以下、長いですが論考したいと思います(いいのかな?他人のブログでこんなことして・・・まあ、いいですかね?)。
 最初にバラしてしまうとネタは、アメリカの音楽雑誌”The Instrumentalist”の1975年5月号に掲載されたフサが自らの生い立ちについて語った特集記事です。それによると、フサの両親は質素な生活で音楽的素養はまったくない人達だったようです。フサ自身も、少年期から技術系の学校に通い、工学を学び、数学や幾何に熱中していて、将来は母親の言うとおりエンジニアになることを目指していたと語っています。同時に、絵を描くことも大好きで、また、親の薦めでバイオリンやピアノも習っていたと言います。両親は、一度もコンサートに行ったことがないような人達でしたが、子供が音楽によって楽しく人生を送れるようになることを望んでいたようです。しかし、これが後になってフサの運命を救うことになります。
 1939年、ナチスのドイツがチェコに侵攻した時、フサは工学部に在籍する学生でした。彼の述懐によれば、同級生の1人がナチスに殺害され、学生は皆、抗議しますが、これに対してナチスは学校を閉校にし、学生達をドイツ国内工場での強制労働処分としました(この時、フサはドイツに連行されずに済んでいますが、どうやってナチスの目を逃れたのかは語っていません)。その後、大学レベルの技術系学校は全て閉校になり、美術系と音楽の学校だけが残ったので、絵の好きだった彼は最初美術学校への進学を考えましたが、そこでは旧技術学校からの流れ学生がチェックされていたために断念。そして、そうしたチェックが行われていなかったプラハ音楽院に結果として入学することになりました・・・
 ここからは深読みになるのですが、最初の学校閉校の際、どうやってドイツでの強制労働を逃れたのか、また、1939年のナチスのチェコ侵攻から1941年のプラハ音楽院入学までの時期をどんなふうに過ごしていたのかが、「プラハのための音楽1968」の作曲動機を理解する上でも重要ではないかと思われます。このことについて彼は語ってはいません。が、後年のフサがこの時期の自分自身をどう自己評価しているかが、以下の文章から垣間見えるように思います。
 “During this period, I lived only for music and I must honestly say that I was escaping. We did not consider the occupation to be a permanent state – we knew it would end someday. But that 6 years seemed incredibly long at that time.” (p. 33, “The Instrumentalist”, May 1975)
 この、I must honestly sayが痛切に突き刺さってきます。引け目に感じていること、負い目に感じていることを敢えて「告白しなければならない」という感じでしょうか。何を?「逃げ回っていた」ことをです。1970年代のアメリカで、生きるために逃げたフサを非難する人は誰もいないでしょう、いや、チェコにおいてもそんな人がいたとは思えません。が、多分、フサ自身の心の問題として、学校の同級生が連行されていく状況下で、(どうにかして)逃げおおせて音楽をやってる自分というのは、どうにも許せないという心情があったのではないでしょうか。時代も違い、国状も違う我々から見たら、フサはナチスの被害者以外の何者でもないですが、フサ本人にとっては、ナチス支配下で消極的に生きながらえる自分は、連行された同級生に対しては裏切り者で、ずるくて、しかも無能だと。20前後という年齢を考えても、納得いかないものに対して身を屈して立ち回るというのは、極めて屈辱的に感じられたと思われます。後に音楽で成功していく中でも、犠牲になった多くの同世代と自分とを比較した場合、逃れようのない引け目、負い目を感じ続けていたのではないかと想像するのです(我ながら、かなり想像力豊かだな~)。
 そこへ、1968年の事件が起こります。楽曲は、爆発する怒りそのままを譜面にたたきつけたかのようです。何に対する怒りだったのでしょうか?多分、東西を分けるイデオロギー的な発想はほとんど関係なくて、個々人の思いや生活を蹂躙して毛ほどにも感じないあらゆる力や歴史に対する怒り、それに対して何もなしえなかった自分への怒り、そんなものが渾然一体となって、つまりは、理念的に「暴力はいけない」とか「平和が一番」とかいったようなものではなく、自分が若い頃にプラハで味わったかなり個人的な体験に根ざした怒りが29年後に再び戦車に蹂躙されるプラハを見て爆発したのではないかと思うのです。
 ここから先は、もっと個別の研究を重ねなきゃいけないんですが、多分、こういう心情をセルも持っていたんじゃないかな~。セルだけじゃなくて、第二次大戦を機にヨーロッパからアメリカに活躍の場を移した多くの同時代人にとって、フサのような心情は共有されていたのではないかと推測するのだけれど。後の時代に生まれた我々から見ると、被害者と加害者って単純に二分できるけど、同時代にそこで生きてた人間は、大状況的にはみんな被害者なんだけど、局面によっては自分が生きるために友を裏切ったり、親族を売ったり、助けを求める者を見殺しにしたり、といったことをせざるを得ない。いやでも加害者になり得てしまう、そんな二律背反性がフサのような強い怒りをも生むような気がします。
 全然関係ないですが、こんなことを考えてると、フランスのシャンソン歌手Barbaraの歌がよけい「ぐっ」と来ます。
 場所ふさぎなコメントですいません。ご容赦のほど。

投稿: くっしぃ@サウジ | 2006年10月20日 (金) 13時00分

素晴らしいコメントをありがとうございます!

戦争の残酷性とは、直接的な殺人や破壊だけではなく、皆がそれぞれ生き残るために生じる、さまざまな悲劇を齎すという側面もあるということですか-。
フサにしてみれば、悔恨して已まない醜い自分の姿も含めて、戦争がそうした悲劇とともに繰返されることが許せなかったということかも知れませんね。

♪♪♪

それにしても「トッカータとコラール」の冒頭は貴兄のご指摘通り”機関銃乱射”だと思いますね。テュッティでいきなり機関銃ブッ放して、Timp.のソロとMuted Trp.の鋭いカウンター!
描かれた場面を想像するとゾッとします。
つくづく、なんちゅう曲でしょうか!

投稿: h-ongedo1964 | 2006年10月20日 (金) 21時46分

はじめまして。
この曲の日本語題名についてなんですが、
以前、秋山紀夫先生が 「 プラハ1968年のための音楽 」
というのが正しいようなことをおっしゃってたのですが、
どちらが正確な日本語曲名なのでしょうか?
現在自分のコレクションを作成しているのですが、
正確な日本語曲名をいろいろ調べているのですが、
お手数ですが、回答よろしくお願い致します。

投稿: TAKANO | 2009年12月 4日 (金) 15時35分

TAKANOさん、コメントをお寄せいただき有難うございます。
さて、ご質問の件ですが「プラハ1968年のための音楽」が正しいニュアンスの訳という説が近年起こっておりますね。私はこれを否定は致しません。
ただ、おそらくこの曲が広く本邦で認知されたのは1978年以降のはずですが、当時またそれ以前から「プラハのための音楽1968」という凄まじい名曲がある、という話は既に知られていました。「運命」や「革命」ですら議論があるわけですから、そもそも西洋音楽の邦題というのは完全なものとはなりにくいとも思いますし、広く知れ渡った邦題を改めることに大きな意味があるケースは少ないことのようにも思っております。

この曲を初めて聴いた際、(従来から続いている)「プラハのための音楽1968」という邦題には、字面・音律・響きのいずれに於いても実に相応しいという印象を受けました。毅然或いは決然、また抑制されたニュアンスを感じるからです。

そんな私は個人的な好みとして、この曲を引続き「プラハのための音楽1968」と呼びたいと思っております。

投稿: 音源堂 | 2009年12月 4日 (金) 17時21分

h-ongendo1964 様

こんばんは。
早々に回答いただきありがとうございます。
いろいろなところでこの曲の名前を目にしますが、
「 プラハのための音楽1968 」 と書いてあることが
かなり多く感じます。
曲名の日本語訳というものは文章の翻訳と違い
何が正しいかということの判断は難しいですね。
作曲家に訊くのがいちばんかも知れませんが(^^)
丁寧な回答ありがとうございました。

投稿: TAKANO | 2009年12月 4日 (金) 17時32分

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