2008年10月28日 (火)

よんでますよ、アザゼルさん。 <2巻> (久保 保久)

2_2早くも2巻が出た!
「よんでますよ、アザゼルさん。」の人気は相当高まってきたようだ。

破天荒を極めた1巻の印象に比べ、連載誌イブニングで読んでいた時はややパワーダウンかな?と思っていたのだが、改めてコミックスで読むとそんなことはない。この2巻に収録された第10-19話も充分パワフル、いいぞぉぉぉッ!

※おまけマンガ「モルモルクッキング」編収録。
   また、コミックスカバー裏などにも、ちょこまかサービスあり。
※関連記事:「よんでますよ、アザゼルさん。」 <1巻>


★★★

20081014_22巻で特筆すべきといえば、まず(いい意味でも悪い意味でも)没個性的だったさくまが、涼しい顔してエゴイズムやサディズムを滲み出し始めたこと。「たくましくなってきた」といえば聞こえはいいが、さくまも相当な俗物である。
・・・それが、何だかウレシイのはなぜなんだろう?^^;)

そして、天使の登場とモロクの死-。
「何より均衡を重んじる彼らは それが人の世界の理(コトワリ)で起きた出来事である限り 一切を傍観する
それが天使なのだという。ヲタク青年風の風貌、そしてその髪型のイメージは道祖神の男●の如し!

しかし、天使が傍観を止めてグリモアを見つけ、それを手にした時・・・。

★★★

<新登場の悪魔>
ベヒモス 
外観=チンコっパナのパンダ柄象?
職能=怠惰(人間のやる気を奪う)


イライラすんのもわかるけども 飲んだら楽になるよ?
言うからもっとして下さい・・・
最後の方 ハ●ター×ハ●ターみたくなってますね・・・

お持ち帰りは可能ですかアゼザル君
答えるんだ!!テイクアウトは可能かと聞いているッ!!

きもちよろし-やろ- もみきゅっきゅは
きもちよろし-やろ-

ここが池袋で~ここが渋谷かな~?おぉ~と大変だッ
副都心線が開通して一本でいけちゃうね~?

チョッコレイト ディスコ♪


★★★

引続きテンポよし!ギャグよし!
さらなる暴言エスカレートによる、スカッとしたイケないカタルシス求む!(あー、ワシもほんまに俗物や・・・)

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2008年6月27日 (金)

マエストロ (さそうあきら)

003当初「週刊漫画アクション」に連載。同誌の休刊に伴い一時中断、現行の「漫画アクション」復刊とともに開設された「Web漫画アクション」にて連載復活、という数奇な運命を辿った怪作。
さそうあきらが手掛けた音楽コミックとしては「神童」に次ぐ本格的なものである。


「マエストロ」
という表題は、”巨匠”を意味する指揮者の称号。「神童」では天才少女ピアニストを描いたさそうあきらだが、本作では無名ながら”巨匠”の称号にふさわしい音楽性とカリスマを有する老指揮者を描いた。全3巻完結。
さそうあきらの画は、決して達筆ではなく荒削りなままだが、何ともいえない雰囲気があって個性的。またキャラクターによってはいつの間にか登場しなくなるなど、ストーリーに緻密さを欠く側面がある一方で、並ぶもののない優れた感覚を示すことが多い。核心・本質を迷わず突く鋭さを有し、独特の時間の流れが深い抒情性を感じさせる不思議な作風である。「マエストロ」もそうした作品の一つであり、賛否両論はあろうが、私はその世界を高く評価している。

♪♪♪

そもそも「指揮者」とは何なのか-。

一流のプロ楽団であれば、指揮者なしでも”演奏自体”は全く問題なく可能であることは良く知られている。優秀な奏者はそれぞれに精度の高いテンポ感やリズム感を持っているから、たとえ変拍子であっても正確な演奏は可能であるし、譜面に記された強弱の変化はもちろん、速度記号や発想記号などから表現を読み取ることも可能。さらに耳がよく、聴きあうことができるのでアンサンブル能力にも長けており問題は生じない。開始や終了の合図もコンマスの動きで充分だ。

001一方、「譜面」は完全ではない。決して作曲家の意図を100%伝えきるものとはいえないのだ。(但し、作曲家は”伝えきろう”とする努力を怠ってはならないはずだが・・・。)
そして、音楽は作曲家から演奏者に委ねられた瞬間から、その内容が豊かで深いものであればあるほど、作曲家の意図を超えたさまざまな拡がりを持つものだ。これは作曲家の自作自演が必ずしも最高の演奏と一致しないことが表しているだろう。

また、一つの楽曲であっても”好み”の演奏はさまざま。たった一箇所の違いでも演奏には強い個性を与え得る。音楽はニュアンスの芸術だから・・・。

♪♪♪

では、指揮者には何が期待されているのだろうか。
主だったものとしては、
1. 楽曲を俯瞰した構成感の構築
2. テンポ・ダイナミクス・バランスといった骨格
   ならびに個別表現の、適切な選定と統一
3. 各奏者の能力を最大限に引出す”理想”の
   提示と”要求”の実施
4. 演奏に、聴衆から理解され共感され得る
   ”個性”を与えること
ということになろうか。
これらを通じて、「楽曲それぞれが持つ魅力を抽出」して「感動(これもさまざま)」のある音楽を創り上げることだ。音楽を単に「はい始まりました、・・・終わりです」といったものにしては、全く意味がないからである。

だから、指揮者に必要なものは何より「思想」であると常々思う。
音楽的才能や素養も、また華麗なバトンテクニックも、自らの確固たる「思想」を表現・伝達・徹底するためのものでなければならないはずだ。
「思想」の足りない、磨き上げていない指揮者の音楽が、充分な感動を帯びることはない。感覚だけに止まらない知性と思索の音楽家、それが「指揮者」である。

♪♪♪

002更に、指揮者は限られたリハーサル時間で高いレベルの演奏を実現するプロフェッショナル=職人であるとも言える。(如何に優れた楽団員たちでも、アンサンブルを重ねお互いの意見をぶつけあって-では相当な時間がかかってしまうだろう。)

このため指揮者は才能もさることながら、アナリーゼを中心に、周到な事前準備を要する。現場では、奏者と音楽的に高いレベルでせめぎ合い、瞬間瞬間に演奏をモニタリングし、それを向上させる指示を下していく。しかも時間は限られているから、これらの大半を”指揮”(動作)そのもので進めていかねば間に合わない。
-いやはや大変な厳しさである。指揮者とはまさに音楽におけるスーパーマンであり、提示された音楽について全責任を負う。賞賛も批判も一身に受けるのだ。

Photo_2※指揮者の資質を問うコンクールの様子は小澤 征爾著「ボクの音楽武者修行」に詳しい。大変拍子の現代曲の初見演奏、難解な間違い探しを含めたその審査の尋常なさはものすごい。
「のだめカンタービレ」でも千秋 真一のコンクールにおける激闘が描かれているが、指揮者の耳はいったいどうなっているのかと思う。絶対音感は当然のこと、管弦楽フルスコアを眺めただけで頭の中に音楽が鳴ることも当然だし、大編成オケの奏者一人一人の音を聴きわけつつ、トータルのサウンドもモニタリングするのだ。凄すぎる。この上、「棒」で全てを語るバトンテクニックも加わるわけで・・・。(嘆息)


わざわざ言葉で語らずとも、楽団の奏者たちは感覚的に「指揮者」へ”期待”を寄せている。私自身も奏者であるから実感できるのだが、その期待が裏切られた時の気分は、失望を通り越して憎悪に近い。

※(軍楽隊の流れを持ち、学校教育の中で発達した吹奏楽の世界ではまずないことだが)アマオケの奏者たちですら、初めてきた指揮者の場合には資質を試そうと、全員で示し合わせて途中から違う曲を演奏したり(!)といったことをすることがあるそうだ。
私個人的には失礼極まりなく非生産的かつ悪趣味な行為だし、所詮プロにもなれないヤツ(奏者)がそんなことやること自体が無意味とも思うが、「ダメな指揮者にあたるのは嫌だ」という一点だけは理解できるものである。


♪♪♪

「マエストロ」も、楽団員たちの指揮者批判と、その裏にある指揮者への大きな期待を示すエピソードで幕を開ける。

「指揮者はオーケストラの 敵だねっ

と吐き捨てる、コンマス・香坂の科白。ここから物語が動き出すのだ。

♪♪♪

スポンサーの破綻により、解散に追い込まれたかつての名門・中央管弦楽団。その元メンバーたちに再結成の召集がかかる。演目は「運命」と「未完成」。
(”音のない”コミックで音楽を扱うに際して、さそうあきらはこの最も有名な2つの交響曲を題材に選んだ。)

町工場にヒナ壇と反響板を施しただけの粗末な練習場に、メンバーが集まってくる。中央管弦楽団の元メンバーのほか、才能はあるが経験のない無名の若き奏者たちもいる。オケの元メンバーたちも、多くはそれぞれに”問題”を抱えた者たちなのだ。

005そこに現われた指揮者・天道 徹三郎。つなぎを着て黙々と練習場の準備をしていた老人こそ、その人である。
コンマス香坂の合図で合奏を始めた楽団に、今度は天道が言い放つ。
「血の通わん ちんちんみたいな
音楽やのお
そんな音じゃ さっぱり 勃たんわ」

(蓋し名言!そういう演奏って本当に多くないですか?)


天道が並外れた指揮者であることは、直ぐに楽団員全員が察知するところとなる。天道の棒によって、「運命」の冒頭からしてオケは全く違う音を産み出したのだ。
この瞬間から、「運命」「未完成」を題材として、天道は”新しい音、新しい音楽”へと、オケを導いてゆくことになる。

緊張と喜びの練習風景の狭間には、各プレイヤーの人生とその個性が生き生きと、そしてこの上ない抒情によって描かれている。そして天道自身の数奇な人生も・・・。天道はコンサートの開催に執念を燃やす一方、ありとあらゆる手を尽くして楽員一人ひとりを救い、”新しい”音楽へと向わせていく。どのエピソードも、それぞれにとても人間臭く、暖かい。

そして紆余曲折を経て辿り着いた、コンサート本番に待っていたものは-。さらに、続くコンサート第二夜に込められた天道の想いとは・・・。

♪♪♪

個性的すぎる楽団員たちは、みんな一度打ち破れて、どこか拗ねたところがある。そんな彼らが、それぞれに輝いていた過去とも敢えて決別し、天道の指揮の下で生まれ変わることを目指す。
その成長によって、プロとして”こなしていた”はずの音楽に、また新しくそして大きな悦びを見出していくのだ。
お互いの演奏に触発され、認め合い、一つになって解放される-。そんな音楽の最高の悦びが、この「マエストロ」という作品からはビンビン伝わってくる。

004大変感動的なシーンが多いのだが、一つだけというならコンサート本番、「運命」終楽章のシーンを挙げたい。
天道はこのクライマックスで、今まで楽団と天道をつないできたはずの”棒”を投げ捨て、目で、手で、表情でオケに伝えるのだ。
「歌え 思う存分 歌え」

この感動は言葉では伝わらない。ぜひ「マエストロ」を読んで感じていただきたいと思う。

♪♪♪

「練習でもそのとき最高のものを出し合わんと ほんまの練習にならんやろ!」
「やめい」
「四の五の言わず 棒のままに 歌え」
「ここはヒト一人 殺すつもりでやってもらわんとな」
「音楽家は音楽で酔えい!」


「人と人の間に溶け合うって 結構いいな オレ 自分がイヤでイヤでしょーがなかったけど・・・ その瞬間だけ ちょっと自分が好きになれた」
「指が動く・・・ この難曲が このヒトの棒の下では 弾けるんだ」

「それでも- この世で一番美しいものは 音楽だ・・・ そうだろ?」


♪♪♪

「マエストロ」を読むと、猛烈に「運命」が聴きたくなる。どの演奏にしようか?と思ったが、学生時代の友人のオススメを思い出し、聴いてみた。

Photoカルロス・クライバーcond.
ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

この演奏と出遭えて本当に良かった!よく知っていたはずの「運命」に、文字通り新たな生命を与えている。ああ、ベートーヴェンってこんなにモダンな音楽なんだと感じさせられるのだ。200年前の先達にここまでやられては、現代の作曲家の方々もつくづく大変だと思うし、クラシック音楽の底力を改めて思い知らされる。

・・・もちろんそれを現出したのが、カルロス・クライバーという「マエストロ」であるということは、疑いようもない。

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2008年4月24日 (木)

よんでますよ、アザゼルさん。 (久保 保久)

1講談社「モーニング」の姉妹誌「イブニング」は好きな作品が多く以前から購読していたのだが、2007年10月の「イブニング」に突如この作品が現れて、途端にファンになってしまった。
2008.4.23.に単行本第1巻発売、即日購入。連載開始からずっと読んできて、1巻から単行本を買うなんてほとんどない私だが、つい・・・。^^)

★★★

1早瀬田大学2年の萌え系メガネっ娘さくま(佐隈 りん子)芥辺(アクタベ)探偵事務所で事務のバイトをしている。
2ケ月が経ったある日、「そろそろ新しい仕事を覚えてもらう。」と芥辺に開かずの部屋に案内されたさくま。何とそこは魔法陣の描かれた、悪魔の召喚部屋だった!所長の芥辺は、実は悪魔と契約し、その能力を使って難事件を解決する”悪魔探偵”だったのだ-。

★★★

というと、おどろおどろしいオカルト系コミックのようだが、その実態はセクハラ系下ネタ満載のギャグ漫画。(但し、今のところ”エロさ”は皆無。)
現在までに登場した「悪魔」は5種=アザゼル、ベルゼブブ、サラマンダー、アンダイン、モロク。いずれも体躯は小さく2~3等身のギャグキャラそのもの。芥辺が事務所の所在するビルに張り巡らした結界の効果によって、真の姿とは異なり、こうした脅威のない姿になってしまうのだという。

※登場する悪魔たち
「20087_1.jpg」をダウンロード
     「20087_2.jpg」をダウンロード 

しかし「いくらプリチーに見えても我々は悪魔!」の言葉通り、悪魔たちの本質は非道で打算的、また極めて利己的で悪魔同士の仲間意識もない。さくまに対する日常的なセクハラはもちろんのこと、隙あらば契約者である芥辺やさくまを裏切り、脱走しようとし、陥れようとする。
命令に従ったりさくまを助けるのは、専ら「(従わないと)酷い目に遭う」「敵の敵は味方」「その方がマシ」なために過ぎない。

その挙句、決まってお仕置き(というより虐待)されている。特に、芥辺は悪魔たちを常に戦慄させている遣い手で、芥辺こそ大悪魔ではないかと疑いたくなるほど冷徹かつサディスティック。芥辺とは一体何者なのか?はこの作品最大の謎でもある。
(尚、近時はさくまも実力を上げ、アザゼルにきつぅーいお仕置きを食らわせ、間近で見ていたベルゼブブを震えあがらせたほど。)

一方で「殺しはオレの主義に反する」という明確なポリシーが芥辺にはあり、悪魔の能力を利用して事件を解決するにあたっても、その悪魔たちの能力は何故か局地的かつ矮小化?されて発揮されている。それがまたオモシロイ。

★★★

2この作品に出遭ってから色々と調べてみたところ、本作では悪魔たちを思いっきりデフォルメしていることが判った。もちろん、名前や姿・グリモア・召喚と契約といった、設定のベース部分には古くから伝承された「悪魔界」の姿に重なる部分もあるのだが・・・。
例えば本作中、アザゼルは「お前程度の小悪魔」(芥辺)扱いだが、本来は堕天使の大物であるし、ベルゼブブも魔界の王クラスであって、姿もペンギン風などでは決してない。
各悪魔が発揮する特殊能力も、本作品のオリジナルである。

(だいたい、そもそも悪魔が「死ぬんはイヤです-!! 助けて神様~」なんて泣き叫ぶかっ!^^)

もともと「悪魔」という概念自体、”酷い人間の姿”なのだと思うが、本作品に登場する悪魔はそれを一段と矮小化したものとなっており、欲望のスケールも実に小さい。これがとても笑える。
すなわち、本作の「悪魔」は、我々の身近にも居かねない「嫌なヤツ」「人間のクズ」「問題人物」「セクハラおやじ」「嫉妬深い」「うざい」「浅ましい」といった、軽蔑すべき醜い人間の姿をまんま投影したキャラクターになっているのである!

醜い?酷い?人でなし?そりゃそうだ。
だって悪魔なんだもん。
そして、そんなヤツらはどんなお仕置き(虐待)されても仕方ない。
だって悪魔なんだもん。


これがこの作品の設定の柱であり、これを軸にギャグが押し寄せてくるわけだ。

★★★

芥辺・さくま・悪魔たちはそれぞれ全て見事にキャラクターが立っており、オカルトチックなフレーバーをばら撒きつつ、ギャグを織り成していく。そのギャップもギャグをより効果的なものにしている。

そして何より、科白がオモシロイ。  
一つ一つの科白に、現在(現代ではない)感覚も充満している。おたくムードも漂わせながら、実に直截、かつ実に品がないアザゼルがその典型。関西人には申し訳ないが、この感じは関西弁でないと出ないから、アザゼルは関西弁なのだろう。
(アザゼルの下品さは圧倒的だが、サラマンダーの差別発言も相当なもの。従って、本作品の映像化はまず無理と思われる。)

・・・そうした発言や行動を繰り返す「よんでますよ、アザゼルさん。」の悪魔たちだが、見ていて密かなカタルシスをも感じてしまうのは何故だろう?
ひょっとして、心の中に潜む「悪魔」が、社会の中で善人面して良識を気取るよう抑圧された(言い換えれば、「理性や見識を持っているはずの」ともいう)私を突き上げているのだろうか?

残飯にキャビアかけても残飯だろうが  じゅぽっくじゅぽっく  お前みたいに地味なタイプが意外に好きモンでめちゃめちゃ腰使ってきたりしよんねん  こんの野郎-!!そのスカしたツラにウンコ塗りたくってやんぜ-!!  じゃあじゃあじゃあじゃあ電車で隣に座った美女に東スポの男センを見せつけてもつるしあげをくらうことはもうなくなるんですね!?  むしろニートである勇気!!  男なら組み敷いて即情交!!これしかあるまい!!  妬ましい・・・高須のおメメが妬ましい・・・

★★★

とにかくキャラ良し、ギャグ良し、テンポ良し!思わずニヤリの小ネタもたっぷり!画はややラフだが、それも却ってこの作品に合致している。
たまには、こんな作品で笑うのも実に愉しい。今後も期待大である!

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2008年2月16日 (土)

公家侍秘録 (高瀬 理恵)

005_31998年12月からビッグコミック(小学館)ならびにビッグコミック増刊に集中連載、乃至は随時掲載されている作品。これ(2008年2月)までに単行本6巻が上梓され、現在も不定期ながら掲載は継続されていることが、この作品の根強い人気を物語る。他にない題材と舞台設定、確かなストーリーに魅力的なキャラクターが躍る、時代劇コミック屈指の名作と断言したい。

作者・高瀬 理恵のプロフィールはあまり詳らかでない。本作のほか「首斬り門人帳」(ビッグコミック)「20世紀を彩った女たち」(集英社YOU漫画文庫)「花篝 江戸女流画人伝」(集英社/イラストを担当)が出版されているようだが、寡作。
集英社YOU誌のHPにあるプロフィールによれば、デビュー作は1993年「上意」(ビッグコミック)であり、本人は長野県岡谷市の出身とある。作風や美意識からして女性であることは間違いないように思われるが、それすら確証のあるものではない。

♪♪♪

「公家侍秘録」の舞台は江戸時代の京都。名家の一つでありながら、現在の当主・日野西 晴季は無役にして薄禄の貧乏公家。その日野西家に代々仕える”青侍”天野 守武がこの物語の主人公である。
生活が楽ではない(というより結構な困窮状態にある)日野西家では、当主・晴季とその娘(姫)薫子、そして守武の3人が総出でかるた書きの内職に勤しみ日々の生活を凌いでいる。そればかりか、時には守武が”色茶屋の帳付け”をしてまで帳尻を合わせている始末。その僅かな稼ぎすら、外出のたびに薫子がねだる甘味に散逸してしまうのだ・・・。^^)

そんな日常の日野西家ではあるが、実は宮家ゆかりの宝刀・粟田口久国が代々伝えられているという秘密があった。その粟田口久国を守る「守役」こそが、守武の真の姿なのである。

♪♪♪

守武は眉目秀麗の美男子にして、頭脳明晰。運動能力に優れ、剣はもちろん手裏剣や弓、組打ちに至る武芸全般を極めた凄腕でもある。正義感が強く、実直にして確りと筋が一本通った好人物であり、加えて忠義に篤くストイック。更には煮炊き裁縫といった家事全般もこなし、晴季と薫子の身の回りも世話するという、武士として男児として理想と言うべき人物像である。
そんな守武が、天真爛漫な薫子のわがままに振り回される様は何ともユーモラスであり、2人の珍妙な遣り取りが暖かい笑いをくれる。
001_3








物語は、粟田口久国を我が物とするため日野西家を直接襲う不埒者はもちろん、さまざまな邪さから宝物や人々を「守る」守武の活躍を、生き生きと描いている。

♪♪♪

作品の魅力はたくさんある。

公家の生活や、しきたり自体にまずもって興味をそそられる上、
・江戸時代の凋落した公家の状況
・現在も続く「京都」独特の個性
・次々と登場する由緒ある宝物の数々と「守役」の存在
・美術工芸の奥深さ、武芸や幻術の魅力
・・・など脱日常の世界が次々と押し寄せてくる。
たおやかな京ことばで展開する一話一話がどれも興味深いものばかり。エキゾティックで神秘的で、知的興味をかき立てられて已まない。
そもそもこうした題材に着目するアイディアが素晴らしい。また、日野西家や粟田口久国をはじめとして実在するものの登場も多い中で、綿密な事前取材には大変な苦労がしのばれる。こうした作者の努力が、絶妙の虚実皮膜を現出させており、単純な「勧善懲悪」ものとは明らかに一線を画す。

※これまでに登場した題材
「藤原定家の古筆」「頭大人形」「三十三間堂の通し矢」「仁和寺の名香」「印地打ち」「剥れた光琳」「公家の枕絵」「袴垂」「蝙蝠の鐔」「釘隠し」「仁清(御室焼)」「菓銘」「名石」「江戸土産の鮭」「御留花と夏椿」「名物裂」「京焼きの色絵」「京都町奉行」「屏風祭」「黒根付」「肥やしともやしもの」「夢殿虫籠」「蘭鋳」「百間屋敷」など


004_2キャラクターも素晴らしい。守武が魅力的なのは言うに及ばず、わがまま放題で色気ゼロ、食いしん坊で耳年増、サバけたところもある薫子はそれでも決して憎めないお姫(ひい)さんで、実はクレバーにして底流に強い正義感も持つ。

日野西 晴季
も同じで、冴えない公家ではあるのだが、あるべき矜持と強い正義感を持つ好人物であり、正義に動こうとする守武に当主として即断のゴーサインを出すのである。

要は極めて真っ当な人たちばかりで、それが一たび事件に接するとパッとしない日常とは対照的に、ここぞとばかりの煌きを見せる。困っている者がいればそれを助け、非道な者はこれを正す。何の見返りも求めることはない。(薫子はそれに不満たらたらなことが多いが・・・。^^;)実に爽快なのだ。


何より、そんな活躍が人知れず行われている美しさ。
完璧な人物である「守武」が自身の境遇になんら不満をもつことなく、成すべきことを成していく美しさ。
「他」というものを愛する美しさ。
-そうした美意識が深く共感を誘うのだと思う。
その表現も大変奥ゆかしく抒情を極めており、それが描かれた時代また武士の世界というものに、洵に相応しい。

本作はもちろんフィクションであるが、もし事実だとしても歴史の表に残ることは決してないものである。歴史を動かすといった大仰な意味があるものではないが、市井の中で変わらぬ大切なものを「守って」いくことの尊さが、この作品全体から伝わってくる。
(私たちもまた、現代の市井の中でそれぞれ懸命に生きているのだ。)

♪♪♪

003どの回も、大変丁寧に描かれており心に迫る(守武の恋物語などは堪え難いほどの切なさ!)ものであり、どれも甲乙つけ難いが、一つだけというなら第1巻第6話「幻術」を挙げたい。

名跡の宝刀を次々と奪う幻術士との対決の物語であるが、西瓜をモチーフに使用し、季節感を演出しつつ時空を超えた因縁を、統一感をもって描出している。更に守武の亡き父母も登場させ、非常に奥行きのある出来映えとなっている。
対決のクライマックスで母の幻影を見せられ動揺した守武だが、最後まで”強さ”を持ち続け幻術士を倒す。その強さを与えたのは父の教えであり、守武が一心にそれを守ったがゆえの勝利であった。
幻術と判った上でも、それでも二度と会えぬ恋しい人に会えるなら-
生身の人間のそんな「欲」に肉薄した、実にドラマティックな名譚である。

♪♪♪

単行本で読むとややヴィジュアルが混み合った印象を受けるかもしれないが、完成度が高く読み応えは充分。ぜひご一読をお奨めしたい。
私自身、続編を今か今かと待っているのである。

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2007年4月26日 (木)

神 童 (さそうあきら)

001_51998年に週刊漫画アクション(双葉社)に連載された。クラシック音楽を題材としたコミックがまず見当たらない時代に、真っ向からそれに取り組んだ佳作。単行本は全4巻。
作者さそうあきら「神童」を連載できたことに感謝を述べているが、「人気第一」が常識のコミック界において、こうした異色の作品を連載させてしまう気骨がある雑誌は「アクション」※以外には見当たらなかった。


※漫画アクション

古くは「ルパン三世」「じゃりン子チエ」、近いところでは「クレヨンしんちゃん」といった大ヒット作も多数送り出しているのだが、持ち前の「気骨」が祟ってか、部数低迷により
2003年に休刊に追い込まれた。20044月に月2回刊にて復活を果たし、ノンフィクションものなど他誌にない個性の作品を提供、Webとの連携も図るなどの試行錯誤も行いながら、引続き「気骨」のある誌面の雑誌となっている。
現在の連載陣を見ても個性的なテーマ・世界を有する作品が多い。堅実で安定した「駅弁ひとり旅」(櫻井寛×はやせ淳)や「
BARレモン・ハート」(古谷三敏)もあるが、「おりんちゃん」(川島よしお)「うちの妻ってどうでしょう?」(福満しげゆき)をはじめとして独特の世界が面白い作品が多く、オススメ。
また「お願いサプリマン
My Pure Lady」(とみさわ千夏×八月薫)のリアルなエロさは凄い!(ハッキリいってヤバいです、マジで。実際、八月薫氏はその道では高名であり、一般誌掲載作品としてはギリギリの線でしょう。それにしても、「エロ」を感じさせるにも 画力・表現力が必要だということを再認識させられる高度な作品ですなあ。)
私は復刊当初から毎号購入し、応援している。頑張れ漫画アクション!
<連載陣は2007年4月時点のもの>

◇◇◇

005_3夭折した天才指揮者を父に持つ天才小学生ピアニスト、成瀬うた。指を大切にしなければならないピアニストにとってご法度の野球に熱中する彼女が、並外れた聴覚を持ちながらも腕前は冴えない音大浪人生・菊名和音(通称ワオ)と出会うことから、ストーリーは始まる。

うたの教えとフォースを受けて音大に合格、紆余曲折を経ながらも御子柴教授や声楽科の賀茂川 香音との出会いを通じ、ピアニストとして開花していく和音。
一方、「世界はうたを無視してとおりすぎることはできない。」という和音の予言通り、巨匠ロブコウィッツの後押しによる衝撃のデビューをきっかけに、世界に神童ぶりを轟かせるうたの成功。

そのうたを突然に襲う、音楽家にとっての最大の不幸-。その不幸の先に、うたが摑んだ永遠の「天色の音」。

※関連記事 「ピアノ協奏曲 ト長調/M.ラヴェル」

◇◇◇

002_4やや常識外な設定、大きく振れるストーリーは如何にもコミック的であり、描写や表現にやや粗い部分があることは否めないが、間違いなく真実や理想や夢を内包しており、また鋭敏な感性が感じられるもので大きな魅力がある。

登場する音楽家たちの姿は、生身の欲望や感情に塗れており、実に人間臭くリアル。「神童」のみならず、「マエストロ」でもさそうあきらが描く音楽家は、その実態をピシャリと言い当てていると思う。意地悪く言うと、そうしたリアルな「音楽家」たちが、うたの音楽に圧倒され思わず心酔してしまうさまに、私はカタルシスを禁じ得ないのだった。

そもそもうたの演奏は、音楽家どころか野生の鳥たちをも魅きつけ、萎れた花を蘇らせてしまうものであり、万人に感動を与える音楽である。

「そういう音楽が存在してほしい。そんな音楽が聴きたい。」

そこに理想や夢を感じるから「神童」はファンタジーなのである。
また”音”自体に対する感覚が恐ろしく鋭敏で、音楽以前にこうした”音”への執着が見られることこそも「神童」の特徴であるだろう。

◇◇◇

さそうあきらは「性」というものに対するアプローチが率直で、「神童」においてもそれが感じられる。美少女が主人公でもあり、性的な匂いが感じられるとの指摘も少なくない作品である。
私は男なのでこういう表現にさせていただくが、そもそも音楽って「女」に近いなって思っている。(「のだめ」に登場する指揮者・松田幸久も、Lesson79で「音楽と女は同じだ !! 楽しくって気持ちいい」と断言している。^^)

003_1私は素晴らしい音楽、素晴らしい演奏に接すると、究極的には”エクスタシー”を感じる。残念ながら、そこまでの感動を与えてくれるものと頻繁に出会えるわけではないが、その際に得られる”エクスタシー”が、何に一番近いかというと「性的快感」だと思っている。
また「あ、いいなこの曲。」と感じるトキメキは、素敵な女性に対して感じるトキメキに似ていると思うのだ。

華奢な女性が好みであっても、女性の豊満さに灼けるような衝動がこみ上げることもある。
純真無垢な女性が好きなのに、コケティッシュで娼婦然とした
AV女優の表情に気が戦ぐときもある。
日本人女性に止めを刺すと思っていても、肉体美を極めた或いは輝く金髪の外国人女性にそそられることもある。
長い髪に魅力を感じていても、おきゃんなショートカットの女性にハッとすることもある。

要は「いいな」と思えるかどうか。他人が「お家柄も学歴も素晴らしく~快活で美人の誉れ高く~」などと唱えたところで、自分のハートが「感じ」ないものには、些かの価値もないということであり、音楽にもまったく同じことが言える。

もっと下世話に言うなら、「勃つか、勃たないか。」(失礼!)

- 品はないけれど、音楽に対するこの感覚はずっと鋭敏でいたい。色々なタイプの女性にそれぞれの魅力があるように、ジャンルを超えたさまざまな音楽がそれぞれの魅力をもって、心の奥を引っかいていく。それが文字通り「楽しくって、気持ちいい!」わけである。
そして、そのそれぞれの魅力を最大限に引き出した音楽(演奏)こそが、”エクスタシー”をくれるのだ。

◇◇◇

004_1随分俗っぽい話になってしまった。
「神童」においても、前述の通り人間臭いキャラクターたちは欲望や感情が剥き出しだ。しかし、「音楽」はそうしたものを昇華してくれるものでもある。
うたと和音の関係も、ラストシーンではそういうものを全て超越し、完全に止揚された崇高なものとなっているのだ。

まだ若いころには、「神童」の結末に「綺麗だが、やるせない」と感じた私だった。もの凄く判り易い形で得られる栄光(?)というもののみに、意味と憧れを感じていたということだと思う。
改めて読み返してみて、充実した幸福感をこのエンディングに感じた。いい意味で、私もオッサンになったということだろう。

(尚、「神童」を読んでみようと思われた方は、作者が12ページを新たに加筆し31ページに亘り手を加えたという、「文庫版」が宜しいのではないでしょうか。お節介ですが・・・。)

◇◇◇

追記:
「神童」に比べると「のだめカンタービレ」は理想の世界だなあと思う。「のだめ」のキャラクターたちは”音楽”の前には皆等しくストイックな「使徒」であるし、お互いを尊重し尽くすポジティブな人ばかり、まさに「理想郷」である。しかし、それこそが「のだめ」の魅力に他ならない。
「もっと愉快な音楽を」
このメッセージに統一された「のだめ」も、大変に魅力的なのである。

だから、それぞれの”世界”をもつ「神童」と「のだめ」について、どちらが優れているかなんて議論に意味はないのである。

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2007年4月16日 (月)

めぞん一刻 (高橋 留美子)

I.「めぞん一刻」という作品について

Photo_3171980年秋ビッグコミックスピリッツ(小学館)創刊号より連載開始、1987年の完結まで、同誌の人気をも支えた大ヒットコミック。既に「うる星やつら」で成功を収めた高橋 留美子は、本作で非SFのジャンルに取組み、これもまた大成功させたことで漫画家としての評価を完全に不動のものとした。

高橋作品には民俗学的伝説に取材したものなどに暗鬱な作品もあるが、大多数が明朗快活にして賑やか、前向きなものである。
周到にして多次元的な設定、テンポの良さ、ユニークさを極めた個性的なキャラクター、「ズレ」「ニブさ」を効かせた独特のギャグ、美しくチャーミングな女性キャラククターの絵柄といったものが織り成す、彼女のコミックとしての完成度の高さは今更言うまでもないが、「人間」というものへの愛情を含めた、極めて真っ当な作者の価値観が感じられることが読んでいて安心だし、嬉しい。
あらゆる面で作者の美意識が高いということだと思う。

☆☆☆

Photo_319「めぞん一刻」は1980年代、東京の住宅地に存在するボロアパートを舞台に、常軌を逸した個性の住人たちに悩まされる浪人生の五代 裕作が、若く美しい未亡人にして同アパートの管理人としてやってきた音無 響子と出会い、彼女に一目惚れすることに始まるラブ・コメディ。

当初は一の瀬のおばさん・四谷さん・朱美さんという激烈な個性の住人キャラクター(個々のユニークさと、その配置の妙は脱帽するほかない!)に五代が翻弄される、スラップスティックなコメディ色が非常に強かったが、ほどなく五代の響子に対する恋が成就するまでを丹念に描く作品になっていった。
同時に、苦労の絶えない五代という男の子の成長物語として、また響子を通じて示された女性心裡の描写作品として昇華、笑いとともに充実した内容を擁し、読み応えのある作品となっている。

80年代のコミック界では、薄っぺらい甘味しか感じることのできないラブ・コメディが濫造されていたが、「めぞん一刻」こそはそうしたモノとは完全に一線を画す、堂々たるラブ・コメディの永遠の傑作である。


II.「めぞん一刻」にのめり込んだ私

Photo_320「めぞん一刻」の登場は
1980年で私は高校1年。この年の秋に連載がスタートしている。私が「めぞん一刻」を認知したのは高校2年になってから。元々コミックが大好きだったのだが、中学3年間は文字通り音楽(=吹奏楽部)に没頭していたので、自分の自由になる時間は「楽器の練習」「音楽を聴く」「写譜」「フルスコアを読む」「音楽関連書籍を読む」以外には一切使わなかったから、何と「うる星やつら」の存在すら知らなかった。
(「めぞん一刻」を読んで高橋
留美子に興味を持ち、「うる星やつら」を読んだという、私の世代では変り種である。)

ある日書店に立ち寄って「あれ、新しい漫画雑誌だ。」とビッグコミックスピリッツを手に取ったのがきっかけ。一話読んだだけで、もの凄く惹かれた。直ちに単行本を購入し、ストーリーの全容を知るや、一気に嵌り込んでいく。

<ハマッた私の行動>

・続きが早く読みたい私。私の住んでいた田舎はスピリッツの発売日が都市圏比
2日遅れだったが、ある日、駅の売店なら1日遅れであることを発見!以来、高校を昼休みに抜け出して駅の売店にスピリッツを買いに行った。昼休みに抜け出したのは文字通り「一刻も早く」読みたかったから。それどころか、まだ売っていないと判っていたのに、都市圏の発売日当日にも「もしかしたら、もう売ってるかも・・・。」と欠かさず見に行っていた。

・絵心が全くない私だが、模写に精を出した。モノクロだけでなく、水彩によるフルカラーも・・・。元のタッチに少しでも近づけたくて、Gペンにケント紙までも用意して、一心に描いた。恐ろしいことに、毎日描いていると、画才ゼロでも真似だけはできるようになってくるもので、自分でもある程度満足できるものができていた。
尤も、パロディ漫画を描くとかではなく、「如何に元の絵に近付けるか」に腐心していただけなので、今の時代ならスキャナーや
CG取込みによるコラージュ作成とか、そういう方向に行ったと思う。ただ実際に描くことで「めぞん一刻」の世界にぐっと近づいた(自己)満足感があった。

・スピリッツの懸賞で「めぞん一刻・スタンプセット」が当たるというものがあった。どうしても欲しくて、少ない小遣いを全部投入してハガキを買い、何十枚も応募して見事当籤した!届いた時は天にも昇る気持ちだったなあ。(いつの間にか無くしてしまったが・・・。)

・スピリッツに何度か「めぞん一刻」へのファンレターを書き、その内
2度”スピリッツ・ファン”という読者投稿ページに掲載された。2度目は掲載されることを全く想定していなかったので、驚いた。(実名投稿だったが、名前の一部が変えられていた。)
近年、「めぞん一刻」の復刻ムックが発売された時にも「当時のファンの声」として掲載され、図らずも自分で当時の投稿を見ることに。やっぱり、ちょっと恥ずかしかった。(でも、好きだったんだから仕方ない。)

大学に入ってからも、
・スピリッツ掲載時の大きさで読みたくて、「まんだらけ」でスピリッツのバックナンバーを創刊号から全て買い集め、所有していた。
(結構な値段だった。保管スペースがなく、泣く泣く処分。)

・「描き下ろし画集」が発売された時も直ぐに買った。当時の部屋は文字通り「響子さんだらけ」だった。

☆☆☆

「めぞん一刻」の設定では、
五代 裕作 私の3歳年上
音無
響子 私の5歳年上
である。高校生当時、大好きな音楽は封印されごくマトモに進学を目指していた私にとって、「めぞん一刻」は身近な”憧れの世界”であったのだ。


III.「めぞん一刻」の何に惹かれたのか

14001前述の通りコミックとして優れた要件を多く備えており、理屈抜きに楽しめる作品なのだが、それを超えた次元で自分がハマった理由は何だったのか。
(左画像:表紙絵の中で私の一番好きな14巻)

1.前を歩いていく五代への憧れ
前述の通り好きな音楽もとり上げられ、抑圧された高校生活を送っていた私は、「大学に合格したら、東京で独り暮らし!」とその開放感に期待する高校生だった。
3歳年上の五代の浪人~学生生活は本当に楽しそうで、感情移入してワクワクしていたのだ。(それだけ身近な等身大の設定であったことが大きい。)親の監視から離れ、自分で判断して一日を過ごす、子供ではなく徐々にオトナとして扱ってもらえる生活。端的にそれだけでも何より共感と憧れがあった。恋愛、宴会、バイト、学園祭・・・新たに自分が接するであろう世界に・・・。
その後も、就職に苦労したり、晴れて最愛の女性との結婚の日を迎えたり・・・五代という等身大の主人公は、常に私の何歩か前を歩いていく「先輩」であった。

2.作品に織り込まれた季節感、時流感
コミックの世界では、「時間の経過」が無視されることが多い。しかし「めぞん一刻」は(多少のデフォルメはもちろんあるが)時間を確りと経過させ、加えて折々の季節感を織り込んで楽しませてくれた。行事やイベントだけではなく、自然や気候というものについてもふんだんに・・・。こうした描写がストーリーに奥行きを与えているし、作者の感性が感じられて豊かな気持ちになる。
時間の経過を辿って描き切ったことが、「虚実皮膜」のリアリティを高めた要因であるし、当時の流行を取り込んだファッションをキャラクターに纏わせていることも素晴らしい。

Photo_3213.「響子」という存在
何といっても、この魅力的な女性の存在に尽きる。美貌と抜群のプロポーション、善良にしてまともな価値観。なのに完璧でない「女の子らしい」危うさが、男の保護本能をくすぐる。
こんなチャーミングな女性に惚れること自体は理解できるが、それにしても五代の生活は響子を中心に回っている。響子をめぐって一喜一憂し、人生の生き方も響子を中心に据えていて、さらにそれが
24時間365日徹底されているさまが、常軌を逸していてじつに可笑しい。

しかし、である。
一人の女性にこれほどまで夢中になれるものなのだろうか。女性との恋愛に全ての価値観を振り向けられるものなのだろうか。

何より、それほどの女性と、めぐり逢う
ことができるのだろうか?

「めぞん一刻」における最大のファンタジーはここにある。
しかも、さまざまな紆余曲折を経ながら、そんな女性と永遠に結ばれる物語。これ以上のファンタジーはないと思うのだ。

※私自身、それにめぐり合ったと思えた経験、期間がある。自分の至らなさもあり失ってしまったが・・・。以降、恋愛にそこまでの「夢」は持てなくなってしまった(=自分を守るために、当然である。そうでなければ、とっくの昔に自殺している。)私にとって、「めぞん一刻」は文字通り”永遠のファンタジー”になってしまったのである。


☆☆☆

そして今になって読み返してみると、特に終盤にかけて「女性心理」「恋愛心理」というものの描写が丹念で、感心する。
言葉(=科白)で語ってしまわないところが実に素晴らしい。絵や展開のテンポ(間)、そして科白のコンビネーションを駆使してニュアンスを表現しており、これこそコミックの真骨頂。作者の並々ならぬ手腕を示すものだろう。
また、愛する人と身体を合わせることの意味・大切さを作者独特の感性、美意識で描いている。これもまた男性の立場からみても愛おしく、共感性が高いと思う。

私にとって永遠の名作「めぞん一刻」。今の若い世代はこのコミックをどう読むのだろうか-。

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2007年2月16日 (金)

Blow UP ! (細野 不二彦)

Blow_up_1ちょうど私が社会人のヒヨッ子だったころ、これも創刊1年足らずのビッグコミック・スペリオールに連載されたJazz コミック。久しぶりに読みたくなって手に取った。

S大4ビートクラブ出身のテナーサックス奏者、
菊池オサムが、大学中退~プータローからピンクキャバレーのバンドマン、アイドル歌手のバックバンドを経て、一人前の音楽屋(ミュージシャン)に成長し、LIVE UNDER THE HEAVEN という憧れの大舞台に立つまでを描く-。

「何のために音楽をやるんだ。」

ヨロコビと失望、あるいは微笑ましいエピソードを随所に織込みつつも、内省的で、獏としていて、なかなか見つからないこの問いの答えを探して(実際はそんな意識は終盤までサブリミナルなのだが)いく菊池の姿が、この「Blow UP !」の大きなテーマとなっている。
細野 不二彦の作品はとにかく知的だ。そこに、魅かれる。

♪♪♪

「サックス吹いてるときだけはサマにならへんホンマモンの菊池オサムになれるんや!」

「郁美って、あれ、わけのわかんねーオンナだろ?わけのわかんねーのは
わけのわかんねーままにしとくに・・・限るぜ!」

「サックスの神様が水戸黄門観ながらカップラーメンくっとる」

「だからあんた(=ライバルである菊池)を見つけたとき、むしろオレは救われたような気さえしたんだ。」

・・・まだまだある。印象に残る台詞が散りばめられたこのコミック、音楽好きならぜひ読んでみて欲しい。

敬愛するサックスの神様/クリフォードから
SAM'S BLUESを授かったことを契機に、菊池が”自分の音、自分の演奏”をモノにするくだりも、読み応え充分!

♪♪♪

Blow_up_002さて、本作終盤の重要キャラクター、菊池のライバルにして夭折した天才サックス・プレーヤー=由井 大明にとって音楽は「絆」だった。
「音楽(
Jazz)だけがオレと故郷- 親父の国をつないでくれている-」

一方、果たして菊池は・・・?

「オレは自分の生まれた場所より一歩でも遠くへゆくために・・・音楽(Jazz)をやってきた!」

♪♪♪

どちらもわかるなあ。わかるよ。

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